能勢街道めぐり
岡町・桜塚商店街を横断する能勢街道のご紹介
能勢街道は大阪と岡町・池田・能勢方面を結ぶ幹線で、近世に入ると炭・薪・寒天・栗・銀銅・酒などの物産が盛んに運ばれた道です。 むかしは「大阪道」「池田道」「銀山道」などと呼ばれ、能勢妙見宮をはじめ服部天神・中山寺などへの参詣路としても多くの人が往来していました。道筋には今も常夜燈や道標などを見かけますが、それらは当時の名残です。また、街道を巡ると周辺には名所・旧跡があり、四季折々の風情や歴史を今に伝えています。
2酒造り(銘柄「明輝」)良本酒造跡
創業は文化元年(1804)ごろ、屋号はあぶらや(油家)でした。冬季は丹波の農家からくる杜氏(酒を造る職人)が10人程いました。良本家は能勢街道に面した総本家で、分家は醤油店を営んでいました。銘柄は「明輝」良質の酒で知られ十三や淡路(大阪市)辺りにも配達されていました。戦後、共同出資の会社をつくり、池田で「呉春」の銘柄で醸造し、良本は販売を専門とする店になりますが、昭和47年(1972)に廃業します。跡地には『能勢街道の沿革』などを記した道標が立っています。
3江戸時代から続く店 土手嘉
店は能勢街道と伊丹街道(市役所通り)が交差する神社の北の鳥居の前にあり、文政9年(1826)ごろに創業された岡町で最も歴史のある店です。店名は神社の「土手」(現在は玉垣)の前に店主が代々名前に嘉吉、嘉助など「嘉」の一文字を入れたことによるそうです。うどん屋のほかに酒造・製麺・製氷の時代もあり、広く配達もしていました。建物は昭和元年(1926)に建てられたもので、見上げると古風な外観で大きく当時の風情がただよってきます。
4鎮守の杜 原田神社
社伝によると白鳳12年(684)、天武天皇より神鏡・獅子頭の寄進を受けて創建され、室町時代の最盛期には摂津豊嶋郡榎坂村から川辺郡富松村までの72か村を信仰圏とし、「西牧総社」と呼ばれていました。天正6年(1578)、織田信長による荒木村重討伐の際に焼亡しますが、その後再建され、貞享6年(1688)、京都吉田家より「原田大明神」の神号を得て現在の社名になります。境内には慶安5年(1652)に再建された本殿(国指定重要文化財)、摂社十二神社本殿(市指定文化財)、大鳥居(市指定文化財)があり、銅鐸の出土、奉納俳諧額や算額などでも知られています。
5国登録有形文化財 奥野家住宅
桜塚村は江戸時代、中世の原田庄(はらだしょう)から分かれた原田郷7か村のひとつで、原田神社の門前から発展した岡町を取り囲む位置にありました。米や菜種などを作る農村でしたが、岡町の町続きとして次第に町場化されていきました。桜塚村には幕府代官領・大名領・旗本領が入り組み、それぞれに庄屋・年寄等の村役人が存在しました。なかでも村内に最も多くの石高をもっていたのが、武蔵国棒沢郡岡部(現、埼玉県深谷市)を本拠とした安部氏でした。奥野家は安部領桜塚村の庄屋・年寄を勤めた旧家す。当主は代々「庄兵衛」を襲名し、「桜の庄兵衛」とも呼ばれたようです。特に18世以降における奥野家の発展はめまぐるしく、文政8年(1825)年には安部氏から大庄屋格に任じられました。また幕末には桜塚に33石弱を所有して村内で最も多くの特高がある家となりました。明治維新以降も当主奥野熊一郎が戸長・村長になるなど村政の発展に努めました。奥野家には5.000点を超える膨大な古文書伝来します。(豊中市立岡町図書館寄託資料)。この文書群には江戸時代の村政や家政に関するものが豊富に含まれ、また明治以降の行政資料も多数あります。奥野家文書は近世以降の桜塚の状況を詳細に知る事ができる貴重な史料です。
1町屋の風情を残す 呉服屋高木邸
岡上の町は、能勢街道沿いに原田神社の境内地を越えて「岡町」とつながるところにあり、その先は豊中市本町になります。そこにもと呉服屋を営んでいた高木邸があります。現在の建物は、明治時代初期のものとされ、むかしながらの町屋の風情をとどめています。内部は改造されていますが、主屋には「虫籠窓(むしこまど)」と「厨子二階」(店の真上二階の部屋で天井が低い部分)などがあり、古い様式が特徴で、豊中市都市景観形成建築物第1号に指定されています。